|禿《とく》王朝設立から二百年、領土の各地では人知を越える現象が起きていた。それに対抗するため、才能ある者たちが修行を重ねる場所が三ヶ所|設《もう》けられる。
その内の一つが町の中にあった。【|澤善教《アイゼンキョウ》】という町で、とてものどかで平和な場所である。
そんな町は気高き山に囲まれ、他者からの侵入を|阻《はば》むようにできていた──
「──いらっしゃい。できたての|包子《パオズ》あるよー!」
青空に雲がふわふわと浮き、太陽が眩しく地上を照らす日中。町中は人々の活気で賑わっていた。
湯気が暖かさを感じる包子、食欲をそそるような肉汁が|滴《したた》る餃子など。野菜や肉の匂いが鼻をくすぐり、お腹を鳴らす者もいた。
数多くの出店が町の中心を陣取り、人々はそこを訪れる。そんななか、町の東側にある朱色の屋根の建物の前にも客が列をなしていた。建物には【|龍麗亭《りゅうれいてい》】と、書かれている。
店の前には白い|漢服《かんふく》を着た女性が何人かおり、客たちに献立表を見せていた。
「二名のお客様、どうぞー……あら?」
女性店員が客を捌いていく最中、店の前を一つの集団が横切る。
それは黒い|漢服《かんふく》を着た男性たちだ。皆が一様に、首に黒い勾玉をかけている。髪型はそれぞれ違うものの、服と勾玉だけは同じだった。
そんな集団の一番後ろ……彼らから数歩後ろに、一人の男性がいる。男性は集団の中でも一際目立つほどに背が高かった。長い黒髪を三つ編みにした姿、そして何よりも、整った美しい見目が人目を|惹《ひ》く。
「……アイヤー。一番後ろにいる男の人、とってもいい男ね」
女性店員は思わず声にしてしまった。すると男性は彼女を見、横目に笑顔を浮かべる。
女性店員は顔を真っ赤にさせながら、去っていく彼へと「今度来てねー。割引するからー!」と、気持ちのよい楽しげな声をあげた。瞬間、同じ店員の女性に腕を掴まれてしまう。
「ちょっとあんた!」
腕を掴んだ店員は慌てて彼女を店の中へと引っぱった。
「あの人たちの事、知らないわけ!?」
「先輩、知ってるんですか?」
引っぱられた方はきょとんとしている。先輩と呼ばれた店員はため息をつく。
「あの人たちは【|黒族《こくぞく》】って云う、三大|仙族《せんぞく》の一つよ。あの黒い衣と、勾玉をつけているのが特徴よ」
「あ、それ聞いた事あります。術を専門にした、仙人様たちですよね?」
何が嬉しいのか、腕を掴まれた彼女は頬を赤らめて男を見つめた。
「はあー……綺麗な男性がいっぱいですよね。特に、あの一番後ろにいる人……」
後光が差してるような気がすると、うっとりしてしまう。
「……えー? 確かに綺麗な人たちかもだけど、後光が差すほどじゃないでしょ?」
あんた目が悪いんじゃないのと、女性店員の視力を疑った。
女性店員は先輩の方がおかしいと文句を言い、彼らを指差した。しかしその直後、女性店員はあれと首を傾げてしまう。
「……さっきまでいたのに」
男性の集団はいた。けれど|肝心《かんじん》の|後光《ごこう》が差してると告げた男の姿が消えている。どこにいったんだろうと周囲を見渡すが姿は見えず。
「どうでもいいけど、仕事サボるんじゃないわよ?」
「あ、はーい!」
女性店員はまあいいかと、仕事へと戻っていった。
◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆
町の|隅《すみ》に細道がある。両脇は家屋に囲まれており、ギリギリ一人が通れるであろうほどに|狭《せま》い。そこは薄暗く、太陽の光さえ当たらない場所だ。けれど……
ふわりふわりと、赤や黄色の花たちが舞う。そんな花たちは、両手を伸ばしたある人物の手のひらへと落ちていった。
「──お帰り」
声の主が|囁《ささや》けば、風もないのに花びらが揺れる。たった一言だけれど、花たちはまるで意思を持っているかのように柔らかく動いた。
華やいでいるわけではない。されど美しい。
そんな光景が広がっていた。
「……あ、そろそろ戻らないと」
声の主は薄暗い場所から身を乗り出す。
陽の光を直に受ければ、声の主の姿が明るみになった。
百六十センチ前後の身長、それでいて|痩《や》せこけている。肌は恐ろしいほどに白く、とても健康的とは言えない。
瞳を隠すほどに伸びた黒い前髪は|櫛《くし》すら通りにくそうなほどに量があり、少し白髪が混じっていた。そして後ろは地につくほどに長い。
上から黄、下にいくにつれて白くなる|漸層《グラデーション》の|漢服《かんふく》に身を包んでいた。けれどいたるところに穴が開き、破れてすらいる。
一見すると老人、けれど声質からして子供のようだ。
そんな小柄な人物はふうーとため息を吐き、指に長い髪を巻きつける。
──|姐姐《ねえさん》たち、怒ってるかな。黙って出てきちゃったし。
そこまで考えて首を左右に振った。手に持つ花たちをバッと、空中へ放り投げる。小柄な人物は花たちに背を向け、両目をきつくしめた。花びらの|淋浴《シャワー》を浴びながらため息をつく。
「いつかは僕も……」
首にかけてある紐をそっとなでた。白く細い指が|紐《ひも》の先へと辿り、薄汚れた|勾玉《まがたま》を握りしめる。
両目を髪で隠しながら立ち上がり、両手を空へと|掲《かか》げた。
すると近くにあった|灯籠《とうろう》がカタカタと揺れる。けれど、小柄な人物は気にする素振りすら見せない。むしろ始めから知っているかのように、ふふっと笑った。そして両手を大きく拡げる。
|瞬刻《しゅんこく》、どこからともなく、いくつもの花が飛んできた。
赤の|牡丹《ぼたん》、桃色の梅、大輪の花である|蓮《はす》など。美しい花たちがふわりと落ちてきた。
「…………」
細い指で花たちに触れる。すると|牡丹《ぼたん》は透明な水、梅は炎の一欠片へと変わった。|蓮《はす》は重たい岩へと|変貌《へんぼう》し、その場にゴトリと鈍い音をたてて落下する。
小柄な人物は驚くことすらせず、さも当たり前のようにそれらを見た。そして何事もなかったかのように|踵《きびす》を返し、立ち去ろうとする。
ふと、上から影が落とされた。何だろうと振り向いた瞬間──
「──ねえ、何してるの?」
低く、それでいて妙に耳に残る、優しい声が聞こえた。
小柄な人物の視界を、黒く|艶《あざ》やかな髪が|覆《おお》った。糸のように細く、宝石のように輝く。そんな黒髪だ。 そこには見慣れぬ美しい男が立っている。「…………っ!?」 小柄な人物は息を飲む。すると突然ふわっと、体が浮いた。いったい何が起きたんだろうと両目を|凝《こ》らす。やがて横抱きにされているということを知り、慌てた。「え!? ……あ、あの!?」「大丈夫。君は、すぐにここから出られるから」 風に|靡《なび》く黒髪が、小柄な人物の頬をくすぐった。耳には彼の低く、それでいて心地よい声が届く。 小柄な人物は男の美しい横顔を見て、両目を丸くした。「さあ、君の借り家に向かおうか」「……え?」 男は小柄な人物を軽々と持ち上げながら、うさぎのように屋根を伝っていく。ひょいひょいとした身軽さで、人一人を両手に抱えているのが嘘のように軽く動いた。 ──借り家って……何で、あそこが僕の家じゃないってことを知ってるの? それに…… これはまるで誘拐。そう言おうとしたが、なぜか男の横顔から目を離すことができなかった。 落ちないようにギュッと、男へとしがみつく。「──うわあ、凄い!」 小柄な人物の目には町の|彩《いろど》りが映っていた。 道を埋めつくす人々の華やかな声。|朱《しゅ》色の屋根の大きな建物。町の中心にある小川の|畔《ほとり》で売られているたくさんの花たち。 空はいつもより近く、太陽がより大きく見えた。「気に入ってくれたみたいでよかった」 小柄な人物を横抱きにしたまま屋根の上を飛ぶ彼は、不敵に片口を上げる。しかし数秒もたたぬ内に男からは笑みが消えてしまった。足を止め、無言でとある家屋を見下ろす。 そこは華やぐ街の中でも、一際きらびやかな建物だった。|朱《あか》く塗られた美しい屋根と柱、それに負けぬほどに大きな建物である。日中だというのに建物のあちこちに飾られている|提灯《ちょうちん》には、明かりが灯っていた。 出入りをする人々は女性ばかりで、皆が美しく着飾っている。建物には[|梅萌楼閣《ばいめいろうかく》]と書かれた看板があった。 男は小柄な人物を抱えたまま、音もなく屋根から降りる。建物の門の前に立ち、小柄な人物をゆっくりと降ろした。「……着いたね」 力強くはないが、|脆《もろ》くはない。そんな声が男から発せられる。
|姐姐《ねえさん》の後ろに隠れた|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、建物から出てくる者を見た。 そこにいたのは一人の男である。彼は先ほど飛び出してきた|特徴《とくちょう》のない男とは違い、どこか|威厳《いげん》を放っていた。 男は|漸層《グラデーション》の入った黄色い|漢服《かんふく》に身を包んでいる。 黒髪を頭の上で一つ縛りし、あまった髪は揺れていた。 年齢は四十代半ば。目鼻立ちは整ってはいるものの、にこりともしない。そのせいで、作り物めいた雰囲気を生んでいた。 身長は百八十センチほどで、中肉中背である。伸ばされた背筋にきっちりと服を着こなすことから、男の真面目さが窺えた。 そんな男は、|眼前《がんぜん》で叫び続けている者を睨む。「──若、私はあなたの弟子でもなければ、※|家僕《かぼく》ですらありません」 どれだけ|威嚇《いかく》されようとも、権力を振りかざされようとも、この男性はひれ伏すことはないのだろう。その証拠に、転がっている男へは威圧を含む視線を浴びせていた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は、二人の男たちのやり取りを見て呆けてしまう。けれどすぐに警戒心を唇に乗せ、彼らを|凝望《ぎょうぼう》した。 ──あの|屑《くず》男はいつものことだけど。今日はどうして、この人が来てるんだろう? 地にひれ伏している者ではなく、背筋の伸びた中年男性について疑問を浮かべる。視線を子供へとやれば、中年男性は彼へ向かって|会釈《えしゃく》をした。 そして|対峙《たいじ》しているもう一人の男を無理やり起き上がらせ、建物の中へと入っていってしまう。 目まぐるしく流れる彼らの行動に、|華 閻李《ホゥア イェンリー》たちは目を丸くした。「……ねえ|閻李《イェンリー》、前から聞きたかったんだけど。あんたをつけ回してる男と今の素敵な方って、どんな人たちなの?」 |姐姐《ねえさん》が、それとなく|尋《たず》ねる。彼よりも少しだけ背の高い彼女は、風に|靡《なび》く髪を押さえていた。 ふと、隠れていた|華 閻李《ホゥア イェンリー》が前に|躍《おど》り出る。幼さの残る見た目を裏切る白髪混じりの髪を、頭の|天辺《てっぺん》で軽く結い上げた。ひとつ|縛《しば》りになった髪は|尻尾《しっぽ》のように、ゆらり、ゆらりと揺れる。 |姐姐《ねえさん》と呼び慕う女性以外
太陽が陰り、雲に隠されていく。晴れてはいるものの、どこか不安になる。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》はその不安を言葉にはせず、男と向かい合っていた。 近くには気を失っている|黄 沐阳《コウ ムーヤン》がいる。けれどその場にいる誰一人として、彼を起こそうとはしなかった。 この事態を引き起こしたともされる|爛 春犂《ばく しゅんれい》はため息をついている。 それでも起こさない方が静かだと、二人は無視を決めこんでいた。 部屋の中に新しい机を用意し、その上に小ぶりの|茶杯《ちゃはい》をふたつ置く。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は、ゆっくりと茶杯へと緑茶を注いでいった。真向かいに座る|爛 春犂《ばく しゅんれい》が飲んだのを確認し、本題へと入る。「──|爛《ばく》先生、先ほど言った事は本当なんですか?」 |対峙《たいじ》している男は、彼が前までいた所の先生を務めていた。今もそれは健在で、側で伸びている|黄 沐阳《コウ ムーヤン》の師に近い存在でもある。けれど彼と伸びている男は相性が悪いようで、顔を合わせる度に|喧嘩《けんか》になっていたのだ。 ──まあ僕も|黄 沐阳《コウ ムーヤン》は嫌いではあるけどさ。|爛《ばく》先生みたいに、明らかな敵意は見せたりはしないかな。 これには、から笑いしか出なかった。それでも今しなくてはならないことは何だったかと、大きく深呼吸して気持ちを切り替える。「それで先生、厄介な事とは何でしょう?」「……お前は先月……|黄家《こうけ》を出る前、こやつと共に行った場所を覚えておるか?」 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は|黄 沐阳《コウ ムーヤン》を指差した。 「あ、はい。確か…&h
開けられた窓から、たくさんの花が部屋の中へと入ってくる。|踊《おどり》りながら|侵入《しんにゅう》するのは|椿《つばき》や|牡丹《ぼたん》、|山茶花《さざんか》など。町中で売られている花だった。 まるで|華 閻李《ホゥア イェンリー》を護るかのように囲う。それはとても幻想的で、子供を|儚《はかな》げに繋ぎ止めていた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》がそれを手に取れば、柔らかで甘い|蜜《みつ》の香りがした。花びらの表面を|撫《な》で、|眼前《がんぜん》にいる|爛 春犂《ばく しゅんれい》へと視線を送る。「先生、そもそも|殭屍《キョンシー》とは何なのでしょう?」 最初は遺体を運ぶ為に|用《もち》いられていた。しかしそれは、何の力もない|直人《ただびと》が|考案《こうあん》したことである。力がないからこそ物理的な物で運ぶ。知恵を|絞《しぼ》って作り出した案、それが|殭屍《キョンシー》の始まりとされていた。 彼は、そこから|殭屍《キョンシー》が生まれたのではないかと|推測《すいそく》する。 けれど|爛 春犂《ばく しゅんれい》は首を縦にふるわけでもなければ、横にすら動かさなかった。ふうーと口を閉じて鼻で息をする。「|直人《ただびと》が始めた事なのは間違いない。しかしそれが|殭屍《キョンシー》というわけではない。死者ではあるが、体という器があっても魂なくては動かぬ者。|殭屍《キョンシー》とは似て非なるものと言われている」 では、亡くなった者がどうやって|殭屍《キョンシー》になるのか。彼は、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の答えを待っているかのようにまっ直ぐ見つめてきた。 子供は、彼の意図する部分を|捉《とら》える。腰をあげて窓|枠《わく》に片肘をつかせ、手のひらの上に|顎《あご》を乗せた。 背中越しに座っている彼へ振り向くことなく、花が舞い続ける景色を|眺《なが》める。 前髪が風に遊
|爛 春犂《ばく しゅんれい》が帰った後、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は|妓楼《ぎろう》の裏手へと向かう。そこは表の華やかさとは裏腹に、雑草が生い茂るだけの荒れ地だった。 建物の壁に背をつけ、服の|口袋《ポケット》から白い何かを取り出す。それは薄汚れた|勾玉《まがたま》だ。それでも気にすることなく、|勾玉《まがたま》を優しく撫でる。 すると、周囲にたくさんの花が落ちてきた。|山茶花《さざんか》や|睡蓮《すいれん》などが、美しい花びらを|伴《ともな》って彼の全身を包み始めたのだ。 彼の姿が見えなくなるまで深く、|濃《こ》い|蜜《みつ》の香りに|包容《ほうよう》される。 しばらくするとそれは|収《おさ》まり、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は再び姿を現した。 けれど花に包まれる前の彼とは違っていた。 幼さを残す顔立ちはそのままだが、|白髪《しらが》の混じっていた黒髪は色素をなくしている。一見すると白のよう。けれど太陽の光が当たった瞬間、美しい|白金《プラチナ》の輝きを放つ。 足元まで届きそうなほどに長い髪は、|蜘蛛《くも》の糸のように細かった。 彼は慣れた様子で髪を払いのけ、落ちている|睡蓮《すいれん》を拾った。それを右の手のひらに乗せ、左手で素早く|印《いん》を結んでいく。「──花びらは耳、|蜜《みつ》は息。花粉は|蜂《はち》を誘い、|蝶《ちょう》を|誘惑《ゆうわく》する。花の役目は我を導くこと」 |空《くう》に描くは術。先ほど|華 閻李《ホゥア イェンリー》を包んでいた花が、今度は彼の力に囲まれる番だった。「|我《われ》、|先々《せんせん》の主なり。そして|我《わ》が声に答えよ。目を開き、全てを知らせよ!」 彼の中性的な|見目《みめ》に負けぬのは、男性にも女性にも聞こえる声である。どちらともとれる|声音《こわね》は花たちを美しく踊らせた。 まるでそれは妓女のよう。花の正体が女性ならば、世の男たちは虜になっていただろう。 そう思えるほどに美しく、丁寧に踊り続ける花は意思を持つかのように、とある場所へと向かった。 町を出て、河の上流へと進む。途中にあるつり橋では、男たちが魚釣りをしていた。 そこからさらに山の方へと向かう。次第に霧が立ちこめ、どんどん濃くなっていった。それでも花たちは風向きに逆らいながら飛び続ける。 空中を散歩す
──何だろうう。すごく懐かしい香りがする。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は重たい|瞼《まぶた》を無理やり開けた。ズキズキと痛む脳を働かせる。ふと、首から上だけが浮いているという感覚に見舞われた。 なぜだろうかと、視線だけを動かす。「──あ、気がついたかい?」 思いもよらぬ声が頭上から聞こえた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は驚きのあまり、|目眩《めまい》を忘れて起き上がってしまう。当然のように視界がぐらつき、ふらりと横に倒れてしまった。「おっと。急に動いちゃダメだよ」 声の主は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体を支える。 ──え? だ、誰? な、何で僕はこの人の|膝《ひざ》で寝てたの? あれ? でもこの人って…… 恥ずかしさと動揺を隠し、声の主の顔を見た。 |宵闇《よいやみ》のように長い黒髪を三つ編みした男だ。女性の黄色い声が聞こえそうなほどに目鼻立ちは整っている。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》とは違い、健康的な肌色をしていた。体格はよく、服に隠されていようとも、大きな肩幅から見てとれる。「……えっと、町で会ったあの人?」 突然声をかけてきて、|人攫《ひとさら》い顔負けに屋根上の散歩を|促《うなが》した。そしてあっという間に姿を消し、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の心に少しだけ疑問を残した男である。 次第に体を|縛《しば》っていた|目眩《めまい》がなくなっていく。|眼前《がんぜん》の男に手を貸してもらいながゆっくりと起き上がった。「ふふ、うん。そうだよ。あの時の散歩はどうだった? 私は、君と初|逢瀬《おうせ》出来て幸せいっぱいだったけどね」 美しい見目に見合わない言動が飛び交う。|華 閻李《ホゥア イェンリー》の小さな手を優しく|撫《な》でた。瞳をとろけさせながら微笑み、子供を壊れ物のように扱った。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は彼の放った言葉に小首を傾げる。銀の髪はさらりと流れ、大きな目とともに男を|直視《ちょくし》した。 すると男はうっと言葉を詰まらせ、下を向いてしまう。|華 閻李《ホゥア イェンリー》がどうしたのと尋ねながら男の顔をのぞけば、彼は視線を|逸《そ》らした。そして天を仰ぎ見、子供の両肩を軽く叩く。 「これぞ、|至福《しふく》の時!」 男の頬には嬉し涙が伝っていた。 しかし|華
自身を軽々と抱き、宙を散歩する|全 思風《チュアン スーファン》の姿に、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は声を失った。 浮遊する彼の足元を見れば、黒い羽が階段を造っている。それを伝って上へと登る様は、まるで宵闇の王のよう。地上にある町を見ようとしても、既に|豆粒《まめつぶ》状態だ。それほどまでに上空へと進んだ|全 思風《チュアン スーファン》は、歩みを止めていった。 山すら視界に入らなくなると、彼は足元にある黒羽根の階段を一度だけ蹴る。瞬刻、階段は地上に近い場所からパラパラと崩れていった。残ったのは二人が立っている部分だけとなる。「……はあー、風が気持ちいいね」 |全 思風《チュアン スーファン》の長い三つ編みが|靡《なび》く。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は彼の黒髪を目で追い、その姿を焼きつけた。 彼の|顔《かんばせ》は美しさのなかに鋭さがある。それは誰も答えることができない、強い眼差しだ。|烏《からす》の羽のように深く、底が見えない。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の視線に気づいた彼は、顔を近づけてくる。彼の長いまつ毛から影が生まれた。女性のようとまでは言わないが、それでも整った顔立ちをしている。 ──本当に綺麗な人だ。どうして僕にここまでするのかはわからないけど……それでもこの人となら、どこまでも行けるんじゃないかって思えてしまう。 彼の姿勢は気高かった。 それでいて柔らかな笑み。 |端麗《たんれい》で何者も寄せつけないほどに|煌《きら》めく姿に、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は声を失った。「うん? どうしたの?」 ズイッと、微笑みながら|華 閻李《ホゥア イェンリー》へ顔を近づける。よく通る声で語りながら子供の|額《ひたい》に一つ、口づけを落とした。 すると、彼の耳を隠していた髪がふわりと|捲《めく》れていく。形のよい耳ではあったが、先が尖っていた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》からの熱い視線に気づいた彼は、大人っぽい表情のままに口元へ笑みを浮かべる。そして子供の髪を優しく撫で「幸せだなあ」と、平和な時間を満喫していた。「ふふ、どうしたの? 私の顔に何かついているのかい?」「……あ、あの! ……っ!?」 空気の薄い場所で大きな声を出したせいか、|噎《む》せてしまう。支えてくれている|全 思風《チュアン
|華 閻李《ホゥア イェンリー》の案内によって|辿《たど》り着いたのは、|黄家《こうけ》の屋敷だった。そこは庭も、|敷地《しきち》すらも広大であった。 屋敷の門には二人の男がおり、彼らは暇そうにあくびをかいている。どうやら彼らは門番のようで、腰に剣をぶら下げていた。そんな二人は突然空から現れた|華 閻李《ホゥア イェンリー》たちに驚く。「……お、お前たち、何者だ!?」 二人の門番は即座に剣を構えた。「おや? 何者って……私はともかく|小猫《シャオマオ》の方は、少し前までこの家に住んでいたんだ。君たちは、それすら忘れてしまったと言うのかい?」 二人の門番の問いに答えるのは|華 閻李《ホゥア イェンリー》ではない。|全 思風《チュアン スーファン》だ。彼は人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、記憶力がないのかと悪態をつく。 すると子供が彼の服を軽く引っ張った。銀の前髪を|退《ど》かし、愛らしい見目を彼へ向ける。「|思《スー》、しょうがないよ。ここの人たちは皆、僕の素顔を知らないから」 |妓楼《ぎろう》にいた|華 閻李《ホゥア イェンリー》の元へやってきた|爛 春犂《ばく しゅんれい》ですら、素顔を知らなかった。唯一知っているのは|黄族《きぞく》にして、|黄家《こうけ》の跡取り息子の|黄 沐阳《コウ ムーヤン》だけである。「|黄 沐阳《コウ ムーヤン》は、たまたま僕の素顔を知ったってだけ、だけどね」 その結果として、しつこくつきまとわれてしまったのだと苦く語った。「……そうか。そんな事があったんだね? ああ、君の素顔はとても可愛いからね。どんな男だって落としてしまうだろう。もちろん、この私もね」 人目も|憚《はばか》らず彼は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の細腰を抱く。けれど……「男を落としてどうするの? 楽しくもないよ?」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は素で返した。 |全 思風《チュアン スーファン》の表情は一瞬だけ固まる。 それでも|咳払《せきばら》いで誤魔化し、放置されている門番たちへと視線を走らせた。子供へ向けている、|慈愛《じあい》に満ちた眼差しは消えている。 代わりに、鋭く尖った漆黒の瞳が門番たちを襲った。 二人の門番はヒッと、短い悲鳴をあげる。けれど負けん気があるようで、怯えながらも剣を持ったまま彼へと立ち向かった。
全ての事件の黒幕は初代皇帝ではないか。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》のそれはあまりにも現実味がなく、|華 閻李《ホゥア イェンリー》と|全 思風《チュアン スーファン》は眉をしかめた。 しかしその予想に|全 思風《チュアン スーファン》が待ったをかける。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》を膝の上に乗せ、子供の両手をニギニギとした。子供らしい肌の滑らかさはもちろん、男にしては小さな手である。 顎を子供のふわふわとした頭の上に置き、|爛 春犂《ばく しゅんれい》に冷めた眼差しを送った。 ──ふふ。|小猫《シャオマオ》は会った頃に比べて、肉がついたかな? それに、とってもいい|薫《かお》りがする。これは……|薔薇《ばら》、かな? 花の術を使う|華 閻李《ホゥア イェンリー》らしい|薫《かお》りだなと、子供の暖かさとともに|癒《いや》しの時間を味わう。「──|爛 春犂《ばく しゅんれい》、どうして初代皇帝が絡んでいると? そもそも初代皇帝はもういないんじゃないのかい?」 そんなに長生きできる人間なんかそうはいない。 人ならざる力を得ている|仙道《せんどう》であっても、せいぜい数百年程度だろう。しかしそれは仙道だからこそ。 初代皇帝は普通の人間だ。百歳まで生きたら長寿と言われるだろう。「……それとも初代皇帝は仙道だったわけ? そう言いたいの?」 |喧嘩腰《けんかごし》に言葉を投げた。|爛 春犂《ばく しゅんれい》を敵でも見ているかのように、|咎《とが》めるような視線を送る。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は彼からの質問を微笑しながら答えはじめた。「いいや。ただ、死体が見つかっておらぬのなら、その可能性も視野に入れるべきだと思う
|禿《とく》王家の者たちは、代々|不慮《ふりょ》の死を|遂《と》げていた。 初代皇帝は行方不明のままに、|遺体《いたい》すら見つからず。二代目皇帝は毒殺。そして三代目皇帝|魏 曹丕《ウェイ ソウヒ》は、権力争いの最中に病気で命を落としたとされていた。 今の皇帝はその息子で、幼くして帝位につく。暴君ではないけれど、尊敬されるほどの者ではなかった。どちらかというと、やりたくない皇帝を無理やりさせられたような……のんべんだらりとした、自由人と言われている。「私は先代皇帝、|魏 曹丕《ウェイ ソウヒ》様が生きていた頃、ある存在を探しに|黄族《きぞく》へと潜りこんだのだ」 とどのつまり、|爛 春犂《ばく しゅんれい》は|黄族《きぞく》ではない。|黄族《きぞく》の格好をしているのは、彼らの信頼を得るためであると告白した。「……先生は、いつから|黄族《きぞく》に?」 |全 思風《チュアン スーファン》に|抱擁《ほうよう》され、落ち着いたのだろう。|華 閻李《ホゥア イェンリー》は涙を拭いて|爛 春犂《ばく しゅんれい》へと向き合った。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は一度|瞼《まぶた》を閉じる。そしてゆっくりと開き、|懐《ふところ》から一冊の帳面を取り出した。 その帳面の表紙には[|禿《とく》王朝の歴史]と書かれている。「これには、初代皇帝から今に至るまでの名が記されている」 中身は|機密事項《きみつじこう》なため見せることはできないが、これを元に目的を|遂行《すいこう》しているのだと|口述《こじゅつ》した。「私の目的はいくつかある。その内の二つは他者に伝えても構わぬと言われている」 帳面を引っこめる。 淡々と、それでいて言葉の全てがハッ
ガッポガッポと、|砂利道《じゃりみち》を一台の|荷馬車《にばしゃ》が進む。道の|両脇《りょうわき》には雑草が生い茂り、田畑もあった。|疎《まば》らではあるが、家屋が並んでいる。けれど家のほとんどはボロボロで、人が住んでいる気配はなかった。 周囲には|尖《とが》った山が多く、側には|運河《うんが》が流れている。水は|透明《とうめい》で、底を泳ぐ魚の姿すら見えた。 雑草の合間から野うさぎが飛び出しては、どこかへと行ってしまう。 見上げた空は青く、雲はゆったりと動いていた。太陽の光が|眩《まぶし》しく地上を照らしている。どこまでも続く空には|鳶《とんび》が飛んでおり、鳴き声が遠ざかっていった。「──うわあ、自然がいっぱいだあ! あ、うさぎがいる。可愛い!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は荷馬車の窓から顔を出し、もふもふとしたうさぎを目で追いかける。 彼らは水の都である蘇錫市(そしゃくし)を後にし、次の場所へ向かうべく馬車に乗っていた。 黒髪で三つ編み、美しい顔立ちの長身の男は|全 思風《チュアン スーファン》だ。彼は整った顔立ちに笑みを浮かべながら、前の椅子に座って|手綱《たずな》を|曳《ひ》いている。鼻歌を|披露《ひろう》しながら|優雅《ゆうが》に先頭を陣取る様は|吟遊詩人《ぎんゆうしじん》のよう。 馬の身体に巻きついた|紐《ひも》を操作し、|砂利道《じゃりみち》を進んだ。 そんな彼を尻目に、荷馬車には|二人《・・》の者がのんびりと座っていた。 一人は|禿《とく》という|國《くに》では珍しい銀の髪を持つ、|儚《はかな》き見目の美しい少年である。少女のような愛らしい顔立ちと、ぱっちりとした大きな両目、病的なまでに白い肌など。|庇護欲《ひごよく》をそそるほどに神秘的な雰囲気を持っていた。 金の|刺繍《ししゅう》が施された|朱《あか》の|外套《がいとう》が彼の銀髪に映える。普段は床
"約束して" |瓦礫《がれき》の山に埋もれた|腐敗臭《ふはいしゅう》が|漂《ただよ》うなか、優しい声が走る。燃え|盛《さか》る|家屋《かおく》、泣き叫ぶ人々。 それらを耳にしながらも声の主は語った。「──君を必ず迎えにいくよ。だから、私の事を覚えておいて」 悲鳴や|業火《ごうか》で|阿鼻叫喚《あびきょうかん》が飛び交うこの場においても、声の主は笑う。「君が世界のどこにいても、私が見つけるから」 声の主の髪は黒かった。それはそれは長く、顔を隠すほどに暗闇に満ちた髪である。けれど瞳は|焔《ほのお》を移し取ったような、|燦々《さんさん》とした|朱《あか》だった。 |凛《りん》とした姿勢の上には|漆黒《しっこく》の|漢服《かんふく》を着ている。スラリと伸びた身長で、|骨格《こっかく》や声からして男性であることが|伺《うかが》えた。 そんな男の前には、ボロボロになった子供がいる。声が届いているのかすらわからないほどに泣きじゃくり、顔を涙でぐしゃぐしゃにしていた。 けれど子供の周囲には、この場に不釣り合いな色とりどりの花が落ちている。|山茶花《さざんか》、|木蓮《もくれん》、|桔梗《ききょう》などの花だ。それらは子供が泣く度に宙へと舞い上がる。 瞬間、|山茶花《さざんか》は雪になった。|木蓮《もくれん》は炎、|桔梗《ききょう》は小石へと姿を変える。 男はこの光景を見ても美しく笑むだけだった。「……今はまだ、◼️◼️を迎え入れるだけの力がない。私個人にはあっても、全てにはないんだ」 男は舞う花を一つだけ掴み、腰を曲げて片膝をつく。 泣きじゃくる子供の頬に触れ、そっと口づけをした。子供の唇はかさついているが、声の主は嬉しそうに微笑する。子供のもちもちとした|柔肌《やわはだ》を少しだけ|堪能《たんのう》し、やがて立ち上がった。「──ああ、もう行かないと」 泣いている子供へ再度腕を伸ばしかけたが、素早く引っこめる。|踵《きびす》を返し、泣く子供へと背中を向けた。 あちこちから聞こえる悲鳴や、鼻をつくような嫌な臭い。それらをもろともせず、声の主は歩き出した。 ふと、何かを思い出したかのように立ち止まる。そして自身の髪を二本抜いた。髪に、ふーと息を吹きかける。すると不思議なことに一本は|蝙蝠《こうもり》、もう一本は小さな|勾玉《まがたま》へと変わっ
|全 思風《チュアン スーファン》は屋根を伝いながら白服の男たちを追った。 下を見れば、街の人々が困惑した様子で道を|塞《ふさ》いでいる。彼らは|殭屍《キョンシー》ではなく人間に戻っているようで、かなりの|動揺《どうよう》が走っていた。 それを屋根上から確認していると、見知った男の姿を発見する。男は|爛 春犂《ばく しゅんれい》で、|全 思風《チュアン スーファン》を見るなり屋根の上へと飛び乗った。「──|全 思風《チュアン スーファン》殿、そちらは終わったのか?」「ああ、終わったよ。|小猫《シャオマオ》は疲れてるみたいだから、安全な場所で休んでもらってる。それより……」 二人はざわつく人々を下に、逃げている白服の者たちを追いかける。ときには木々を利用し、あるときは|提灯《ちょうちん》をぶら下げる太い糸に掴まり、壁を蹴りながら屋根へと登った。 前を逃げる数人の白服へ、|全 思風《チュアン スーファン》は剣を|投球《とうきゅう》する。しかし彼ら白服の者たちには、それぞれの剣で弾かれてしまった。 「……へえ、なかなかにやるね。でもさ?」 ふっと、片口に笑みを浮かべる。右の人差し指をくいっとあげた。 |全 思風《チュアン スーファン》の剣は糸で|操《あやつ》っているかのように空中に浮く。彼は気にすることなく、指先で|空《くう》を斬った。剣は彼の言いつけを守るかのように、|不規則《ふきそく》な動きで白服たちを|翻弄《ほんろう》していく。 「|剣操術《けんそうじゅつ》か。|全 思風《チュアン スーファン》殿は、|仙術《せんじゅつ》にも|精通《せいつう》していたのか?」 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は驚きつつ、自身も剣操術《けんそうじゅつ》を|繰《く》りだした。 二人の|剣操術《けんそうじゅつ》は次々と白服の者たちを切り裂いていく。
──これはまずい! ここにいたら、|小猫《シャオマオ》の体が持たない。 |朱《あか》く光る床から|淡《あわ》い|蛍火《ほたるび》のようなものが浮かんだ。それは無数にもなり、部屋中をふわふわと浮いている。 一見すると美しく、幻想的な光景だった。しかし現実はそうではない。この光が|華 閻李《ホゥア イェンリー》に触れるたび、子供は表情を苦痛に歪ませていった。「……っ|躑躅《ツツジ》!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》が名付けた|蝙蝠《こうもり》を|凝視《ぎょうし》する。すると|蝙蝠《こうもり》は黒い|両翼《りょうよく》を羽ばたかせ、天井目掛けて突撃した。 その一回で天井を突き破り、回転しながら外へと出る。「……|躑躅《ツツジ》、この陣を|破壊《はかい》しろ!」 言うが早いか、|蝙蝠《こうもり》の行動の方が先か。それを考える者はこの場にはいなかった。 |全 思風《チュアン スーファン》が後ろへと飛ぶ。 瞬間、|蝙蝠《こうもり》は口を開けた。大きく息を吸い、勢いをつけて吐き出す。放出したそれは|突風《とっぷう》となり、床に|燻《くすぶ》っていた淡い|蛍火《ほたるび》を消していった。|蝙蝠《こうもり》|の躑躅《ツツジ》は満足げに、ふんすと鼻を高く上げる。 |全 思風《チュアン スーファン》は急いで|華 閻李《ホゥア イェンリー》の細い首に指をあて、脈を確かめる。規則正しいとは言えないが、それでも正常に戻りつつあるようだった。 |全 思風《チュアン スーファン》は胸を|撫《な》で下ろし、床を確認する。多少、陣の名残があるものの、ほとんど光を失っていた。彼は|華 閻李《ホゥア イェンリー》を抱えながら、足で|血命陣《けつめいじん》の一部を|擦《こす》る。 そうすることで陣は機能を|喪《うしな》い、発動できなくなると考えたからだ。その|思惑《おもわく》は
|妓女《ぎじょ》の高笑いは止まることがない。我を忘れて笑い続ける様は、美しさとは無縁なほどに不気味さが|際立《きわだ》っていた。「……|思風《スーファン》って、|思《スー》の事?」 体力が限界を迎えていく。目覚めたばかりだというのに、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の|瞼《まぶた》は閉じはじめていた。 けれど知った名を口にされたため、女を見つめながら小首を|傾《かしげ》げる。 |妓女《ぎじょ》は高笑いをやめ、|華 閻李《ホゥア イェンリー》をひと|睨《にら》みした。華やかな美女から一転、憎しみや|嫉妬《しっと》にまみれた瞳となる。|獣《けもの》のように|瞳孔《どうこう》を細め、怒りを足音に乗せて|華 閻李《ホゥア イェンリー》に接近した。やがて、怒りに任せた足取りが止まる。「わたくしの|思風《スーファン》様を、|馴《な》れ|馴《な》れしく呼ぶでないわ! |小僧《こぞう》が!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の前髪を|掴《つか》んだ。痛みに苦しむ|華 閻李《ホゥア イェンリー》を無視し、|妓女《ぎじょ》は身勝手な腹立ちまぎれに|罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせる。 彼の頬に爪を立て、白い肌に血を流させた。 けれど|華 閻李《ホゥア イェンリー》は泣くどころか、キッと睨みつける。 それがいけなかったのだろう。|妓女《ぎじょ》からすればその強気な態度がますます|癪《しゃく》に触ったようで、爪をさらに深く食いこませた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は痛みに|耐《た》えきれず、消えいる声とともに眉をしかめる。「ふふ……あはは! |小僧《こぞう》が生意気な口を聞きおって。そなたなど、わたくしの体の穴を埋める|贄《にえ》に過ぎ……」
|全 思風《チュアン スーファン》は堂々と正面から|妓楼《ぎろう》の中へと|侵入《しんにゅう》した。普通ならばその時点で誰かが姿を現し、彼へ敵意や攻撃を向けてくるものなのだが……「静かだ」 彼の足音のみが|響《ひび》く。それでも|全 思風《チュアン スーファン》の手には剣が握られていた。 周囲を見渡せば|朱《あか》の|絨毯《じゅうたん》や柱、壁までもが|深紅《しんく》に染まっている。天井には異国の地から取り寄せたであろう|枝形吊灯《シャンデリア》が|眩《まぶ》しく輝いていた。「ああ、本当につまらない」 顔を下に向かせながら、そう、|呟《つぶや》く。三つ編みにした長い黒髪がゆらりと揺れた。それを気にする様子すらなく、ただ|朱《しゅ》の階段を登っていく。 そんな彼の周囲には人の姿をした者たちがたくさんいた。 女は白い|漢服《かんふく》を着、美しい|簪《かんざし》を頭につけている。子供は男女問わず着飾ってはおらず、質素な|漢服《かんふく》を着ていた。男たちは青や水色などの|漢服《かんふく》を着用している。 けれど彼ら、彼女たちは、うんともすんとも言わなかった。黒目の部分は消え、どこを見ているのかわからない白目だけを見開いている。 |瞬《まばた》きすらしない。 呼吸もない。 不気味そのものの、人らしき存在たちだった。「……ああ、これは考えてなかった。|小猫《シャオマオ》の事で頭がいっぱいになっていたな」 そこは予想していなかったなあ、と大笑いする。 剣を|一振《ひとふり》し、道を|塞《ふさ》ぐ者たちを|風圧《ふうあつ》で吹き飛ばした。飛ばされた者たちは壁や柱に体を打ちつける。けれど痛みを感じないようで、小さな|唸《
|全 思風《チュアン スーファン》は自らの鼻を疑った。 彼は死者と生者、そのどちらもを嗅ぎわける能力に自信を持っている。それは間違えるはずがないという絶対的な自信であった。 ──私は|冥界《めいかい》の王だ。その私を|騙《だま》せる者など、そうそういないはず。その私をここまでコケにした奴、か。会ってみたいものだ。 そして殺してしまいたい。そう願った。背景にあるものが何にせよ、大切な子を奪われたのである。|冥界《めいかい》やこことは違う世界のことよりも、それが一番許せなかった。 「……|爛 春犂《ばく しゅんれい》、もしもあんたの言う通りなら、私たちは何を相手にしている? そして、何に馬鹿にされた?」 死者を|統《す》べる王としての怒りは凄まじく、周囲に|強烈《きょうれつ》な突風を|撒《ま》き散らす。 笑う唇の裏にあるのは|静寂《せいじゃく》という名の|怒涛《どとう》。|漆黒《しっこく》を詰めた瞳は|燦々《さんさん》と燃え盛る|焔《ほのお》となった。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は彼の変化に驚きを隠せないのだろう。恐怖とは違う、凍えるまでに|冷淡《れいたん》な表情を見せられグッと拳を握った。額から流れる汗は|妓楼《ぎろう》に集まる人々に対するものではない。|全 思風《チュアン スーファン》という人物への警戒の現れだった。 それでも今だけは頼もしい味方である。唯一正常かつ、目的をともにする者であるのだと、|全 思風《チュアン スーファン》に口を酸っぱくして伝えた。「……ああ、そうだったね。私たちの目的はそれだった」 |全 思風《チュアン スーファン》の瞳は|徐々《じょじょ》に落ち着きを取り戻していく。ふーと深呼吸をし、|爛 春犂《ばく しゅんれい》を見やった。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は心の底から肩を落としている。&n